Komaki Kurihara is an actress.
I have worked as the production staff of the movie.
下田は、栗原小巻さんとの思い出の地。
SHIMODA TOKYU HOTELで映画「花の季節」の撮影をした。
関東の他の場所でも撮影したが、下田東急ホテルが印象深い。
映画「花の季節」は、
監督:中田新一、脚本:中岡京平。
出演者は、栗原小巻さんの他に、高峰三枝子、上原謙、小林稔侍、江藤潤、・・・。
映画が完成したのは、1990年。
試写会は有楽町で行われた。
その後、一般公開はされていない。
庭の芝をはぎ、花壇を作った。
コンテナも並べて、花の庭での撮影の日々が始まった。
撮影中のある夜、彼女は一人でレストランにいた。
テーブルに同席させていただいた。
俳優座の話をした。
劇団俳優座の公演は、大学生の頃からかなりの数を見ている。
男優では、加藤剛、仲代達矢、平幹二朗さんの迫力ある演技が好きだったと。
小巻さんからは、バレエの話を沢山聞いた。
私より先にコマキストだった加藤則雄さんは、成田市に小巻ファームまで作った。
小巻さんは、東京から車で小巻ファームや仕事の現場にも時々来てくれた。
声も容姿も笑顔も心も、すべてが透き通っている人です。
雪のような・・・、水のような・・・
ショック!訃報・加藤 剛さん!
2018年6月18日、胆のうがんで死去。80歳。お別れの会は9月22日。加藤 剛さん
1938年2月4日〜 2018年6月18日
静岡県榛原郡白羽村(御前崎市)出身。
何度か舞台を拝見しました。
印象的だったのは、
劇場の最前列に仮設で設置されたイスで見た時の加藤 剛さん!
死んでから数十分加藤 剛さんだけをずっと見ていた。
全く、呼吸すらしてないように見え、完璧な演技だった!!!
もう、劇場もタイトルも憶えていません。
「忍ぶ川」:1972年
https://ja.wikipedia.org/wiki/忍ぶ川
『忍ぶ川』(しのぶかわ)は、三浦哲郎の小説、またそれを原作とした映画・ドラマ化作品である。小説は『新潮』1960年10月号に掲載、同年に第44回芥川賞を受賞した。
キャスト
・志乃:栗原小巻
・哲郎:加藤剛
竹脇 無我さん
1944年2月17日 〜 2011年8月21日
尾崎 豊さん
1965年11月29日〜1992年4月25日
寒い季節に生まれた人は、
春・夏はツライ〜?!
栗原 小巻さん
1945年3月14日〜
https://matome.naver.jp/odai/2153561219301234501
徹子の部屋 栗原小巻
https://tvpalog.blog.fc2.com/blog-entry-2681.html
(黒柳)さて 今日のお客様は
かつては コマキストという愛称で
呼ばれていらした女優さんです。
栗原小巻さん 今日のお客様です。
どうぞ お入りください。
(拍手)
昨年の大河『おんな城主 直虎』では
家康のお母様をなさいました。
まあノ お元気で
女優さん 続けていらっしゃる
栗原小巻さん
よくいらしてくださいました。
どうも。
よろしくお願いいたします。
(拍手)
今日は いろいろと 昔の録画とか
そういうものも
ご一緒に見ていただきながら
進めたいと思います。
よろしくお願いいたします。
トーク番組って
あんまり お出にならない?
アハハノ そうですね。
でも 徹子さんの このお部屋に
また 伺わせていただいて。
皆さんが多分 知りたいと
思っていらっしゃるだろうと思う
今 その若さを保つ 秘訣を
皆さんが お知りになりたい
っていう事なんですけど
どんな事 やっていらっしゃるの?
まあ 舞台が続いておりますので
それにノ なんていうんでしょう。
向かって
あのノ 体を鍛えましたり。
どんな風に鍛えるの?
私 次の舞台では
ちょっと踊りがあるものですから
ちょっと踊りのレッスンをしたり。
そうなの? ええ。
普段は ちょっと
ストレッチですとか
まあね 体をやわらかくしたり
ちょっと 動けるように
っていうぐらいの程度です。
なんか 階段を上がったり下りたり
後ろ向きで
上がったり下りたりとか
なさるとかノ。
たまには そのような事もします。
ああ そう。
でも 大体 まあノ 普段
ちょっと鍛えるっていう感じ?
そうですね はい。
でも まあ 20代の頃と
同じ体形っていうのは本当?
そうですね。 割と 衣装はノ。
そのまんまで?
はい。
着る事ができるように思います。
これ お可愛らしい。 これはね
バレエ学校 行っていらした
東京バレエ学校?
ええ。 これはバレエのノ
撮影の時だと思います。
そうなのね。 だから いい格好
していらっしゃるんですけど。
163センチが背で 49キロノ。
もうちょっと
少ないかもしれません。
あっ そうなの?
はい。
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じゃあ 47?48キロノ 6キロ?
そうノ そうですね。
そのぐらい?
じゃあ 随分 きちっと
保っていらっしゃるんだと
思いますけど。
ごはんなんか 召し上がる時は
いっぱい食べるの?
あんまり食べない?
いただきますよ。
あんまり こうノ
ダイエットですとか
考えた事ございませんし。
あっ そうなの? あっ そうなの?
でも 旅なんか
やっていらっしゃると
どうしても 変な時間に
食べたりなんかしちゃうじゃない
芝居やってると。
そうですね。
そういう時は どうなんです?
もうノ。
何しろ 夜に
たくさんいただきたい。
芝居の前には
あまり いただかないので。
でも そういう風な生活が
ずっと続いておりますのでね
もう 体も そういう風に
なってるんだと思います。
でも なんか
空揚げとかヒレカツとか
そんなもの お好きっていうのは
そうなの?
いえ 別にノ。
なんでも いただきます。
そうなの? それは作るノ
ご自分で お作りになるの?
自分で料理は なんでもいたします
っていう事でノ。
そうなの? その中には
空揚げとかヒレカツもある
っていう事なの?
はい。
でね 今日は
ここに出ているのはね
なんだか
すごい色してるんですけど。
毎朝 飲んでいらっしゃる
小巻さんの
特製ジュースなんだそうですけど
これ 何が入っているんです?
ちょっと 色 あまり
キレイじゃございませんね。
これ おリンゴとニンジンと
それからピーマンです。
これノ 毎日 お飲みになるの?
いえ 私ね やはりノ
なんていうんでしょう。
爽やかな
自然の恵みというような感じで
お野菜とかフルーツは
大好きなんです。
ですから いろいろな形で
生でもいただきますし。
フルーツも
そのまま むいて いただいたり。
それから スープにしましたり。
もう いろいろするんですけど
これも その1つです。
じゃあ
ちょっと いただいてみよう。
リンゴとピーマンとノ。
なんでしたっけ?
ニンジンです。
いただきます。
ちょっと よくかき回して。
これ なんで こんな色に
なっちゃうんでしょうね。
ニンジン?
そうねえノ。
どうかしら?
おいしくない?
あのノ 甘いのね 結構ね。
あっ そうですか。
ちょっと さっき
作っていただいて
ちょっと 甘みが足りないかしらと
思いまして おリンゴを足したノ。
だから 甘いから
すごく気持ちが悪い ウフフノ。
あっ そうね。 じゃあ おリンゴ
入れすぎてしまったのかしら。
ああノ。
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これね 冷たい方が
おいしいと思います。
あっ 氷 入れてもらったら
良かったかしら。
そうですね。
冷蔵庫から出して
即 作った方がいいと思います。
でも まあ 慣れちゃうとノ
慣れちゃうと
そんなじゃないです。
良さそう 体に。
ニンジンとかをね
あまり いただかないでしょ。
うんうん。
ですから ニンジンをノ。
ちょっと おリンゴ 入れますと
甘くなってしまうので
ピーマンを入れて
っていうような感じ。
別に決まっているわけでは
ないんです。
他のお野菜 入れてもいいですし。
珍しいね。
リンゴとニンジンと
ピーマンですか。
ピーマンが
ちょっと 甘みと相まって
ちょっと具合が悪い
っていう感じですけど
慣れちゃえば平気。
フフフノ。
いただきます。 大丈夫です。
体には良さそうに思います。
さて『徹子の部屋』に
ご出演になったのは
なんと39年前です。
最初に。
すごいノ 最初。
『徹子の部屋』 1979年の時に
おいでいただいて。
でも 初めの頃ですけど。
ちょっと 見ていただいて
いいですか? 39年前です。
「今日のお客様は もう コマキスト
という言葉が生まれたくらい
本当に 若い男性の憧れの的で
いらっしゃいまして」
「バレリーナを
目指していらした頃
私の妹と
ちょうど同級生でいらして
なんか 妹の友達という感じも
いたしますが
当時のあだ名は
パピとおっしゃいました
栗原小巻さんです。 こんにちは」
「こんにちは」
「すごいキレイな お洋服。 ウフフ」
「そう? ウフフノ」
「うん。 でも あれでしょ?
精神的にも 割とお強いですか?」
「ご自分で お考えになって」
「うーん。
どうかしらノ そうですね」
「あんまり こう もう本当に
イヤになっちゃったなと思って
いろんな事があった時に
打ちひしがれちゃったりしない?」
「いや 割と
反省まではあるんですけどね」
「そのつどね ああ しまったとか
いろいろ思うんですけどね」
「でもノ 例えば 俳優をやめよう
なんて思うほどまでには
いっていないから きっとノ ええ」
「ちょこちょこは
反省したりするんですけど」
フフフノ。
「反省」。 でも その後も
俳優をやめちゃうところまでは
いらした事ないんですってね?
お思いになった事は。
そうですね 全くないです。
でも まあノ ねえ
未来に向かって
俳優を続けたいとは
思っていたと思います。
今 まだ ここにね
徹子さんの所に伺って
続けていられるという事に
もう感謝しています。
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そうですよね。
39年前に ああいう風に
おっしゃっていても 今も
続けていらっしゃるんですもんね。
はい。
まあ それは ようございました。
俳優座をお出になってノ
俳優座の研究所。
それから ずっとですから
随分長く
やっていらっしゃると
思うんだけども。
千田是也先生の所にね
いらっしゃったっていう事で。
これは もう
劇団に入ってからだと
思います。
あっ そうですか。
はい。
俳優座には 結局ノ
15期生でいらっしゃるけど
何年ぐらい いらしたの?
えっとノ 養成所は3年間です。
そこで一度 皆ノ
なんていうんでしょう。
放り出されるわけですね。
放り出されて。
そして いろいろな劇団ですとかを
受験して
また それぞれの所ノ
道に進んでいきます。
私は 俳優座に入りました。
ずっと舞台 そしてノ。
何年ぐらい
俳優座にいらしたの? それで。
ああ もうノ。
何年いましたかしら。
ずっと?
そうですね。
先生が お亡くなりになって
その後に ちょっと
自分たちで
芝居を作り始めましたけれども。
そうなんですか。
現在も 舞台に立っていらっしゃる
っていう事で。
舞台っていうのは 何歳の役でも
できるのが 面白いんですって?
そうですよね。 まあ 舞台ノ。
いろいろな時代
それから国も越えて
例えば 私も 最近では
『MARY STUART』などは
16世紀の
スコットランドの女王ですよね。
アンナみたいに
19世紀のロシアの女性とか
日本の100年前の女性ですとか
そういう風に
時の旅人のような感じがしますし。
それから
ジュリエットのような役からノ。
『ロミオとジュリエット』の。
はい。
それからレディ・マクベスのような
悪女まで。
そういう意味での いろいろな幅も
演じる事ができます。
おっしゃってくだすったように
年齢も そうですし。
そういうのが魅力かしらと
思います。
一人芝居もなさっていて
『松井須磨子』。
はい そうです。
日本の 女優の一番最初の人って
言われている。
これは 本当の松井須磨子さん?
はい そうです。
ちょうど100年ほど前ですね。
帝劇に
お出になったっていうのでね。
これを おやりになるノ
お一人芝居で おやりになる?
そうなんです はい。
ピアニストさんと2人だけで。
そうですか。
今年も夏にいたしますし。
鑑賞会の中でノ
来年も続けてまいります。
こういうような感じで?
はい そうですね。
須磨子さんの多分 歌を。
踊ったりもするの?
はい。 タランテラを踊ってノ。
『人形の家』のノ。
『人形の家』をやった時に。
はい。
でも 衣装のデザインは ご自分で
なさるんですって? みんな。
はい そうです。
でも ご自分でなさる時は
大変でしょうね。
まあ いいけども
ご自分が着やすいようにとかね
役柄に合っているようにとか。
はい それはノ。
これは 私1人ですけど
他の出演者の方が
いらっしゃる場合でも
素材選びから しますので。
大変 楽しんでます。
お作りになる時 今でも
お母様が お持ちになってた
足踏みのミシンで
なさるんですって?
そうですね。 まあノ。
衣装の縫製は ちゃんと
お願いしてますけれども
いろんな場合に ちょっと
小物を作ったりします時は
そういたします。
そう じゃあ その足踏みミシンで。
あっ そうなの。
でも あれの方が
ほうぼう いっちゃわないで
いいんですって? 足踏みの方が。
栗原さんは うちの妹と
バレエ学校で
ご一緒でいらしたのね。
はい そうです。
フフフノ よく あなたのノ。
一緒に時々 お会いした事
ありましたよね 妹も一緒に。
そうですね はい。
眞理さんと ご一緒ノ。
妹のね そうですか。
ええ。
でも 今でも 時々 あの人もね
タンゴやったりなんかしてますよ。
もう すごい年なんだけど。
すごい年って言っちゃなんだけど。
まあ 70歳ですけど。 あなたも
やってらっしゃるんですって?
バレエ 今でも。
そうですね。
時々 稽古をしております。
そう 偉い。
下の方のクラスに
桃井かおりさんも
いらしたんですって?
そうですね。
その当時の 子どもクラスで
とっても個性が光っていて。
あっ そうなの。
覚えてます よく。
でも 後年 桃井かおりさんに
お会いになったんですって?
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そうですね。
まあ 再会しましたのは
長くお話しできるという所では
ございませんでしたけど
でも なんていうんですか
バレエという同じ夢をね
こう 描いていた者同士
仲間という感じで もうノ
すぐに友情を感じました。
そうですか。
それは ようございました。
さて 洋裁をなさるのはノ
お作りになるのは
お母様の影響もあって。
はい。
お母様 なんでも作って
くださったんですって? 昔。
そうですね まあノ
センスがモダンでね
もう 私は学ぶところが
たくさんありますけれども。
もう 子どもの頃は
既製服なんて あまり
ございませんでしたもんね。
あなた バイオリンも
習ってらしたの?
はい そうです。
えー!
そうですよね お父様がね
バイオリニストでいらっしゃるノ。
私 知らなかった。 あなたが
バイオリンやってらっしゃるって。
子どもの時は バイオリニストを
目指していました。
お洋服も お母様の
お作りになったものを。
ワンピースで これはね
紺なんですけれどね。
ビロードかなんか?
ここの裾に
クロスステッチの刺繍が
してあるんです。
そうなの? フフフノ 可愛い。
あっ そう。
あなた バレエもやってらして
バイオリンもやってらして
なかなか大変ノ。
そうですね。
私たち まあ 戦後に
やっぱり こう 文化ですとか
芸術に憧れた時代に
こういうバイオリンですとか
踊りも習わせてくれました。
そうでしたか。
じゃあ 良かったですよね。
あなたのご両親は とっても
そういう教育に関しては
ご自由でいらしたんですって?
そうですね。
習いものに関してとか。
そうですね はい。
バレエの道に進むと
言いました時も
早くに見付ける事ができた
という事を
逆に喜んでくれましたし
そんなに反対はしませんでした。
でも そのバレエ学校に
行ってらしたのに
バレエダンサーにはならないで
俳優の方の道に
お進みになったのには
なんか 訳ありました?
いや 訳というのではなくて
やはり もっとノ。
もっと勉強したいという気持ちが
ございましたし
偶然に俳優座の養成所に入って
その時には
まだ俳優になるという気持ちは
強くはなかったんですけれども。
そうなの。
でも 勉強していきますうちに
だんだんですねノ。
でも 当時
ロシア語の授業もあって。
今も ロシア語
習ってらっしゃるってノ そう?
フフフノ そうですね はい。
あっ そう。
じゃあ ロシア語でお話しできる?
いや それほどではございません。
ずっと続けていたわけでは
ございませんので
その時々 必要な時に勉強して。
でも あなた テレビ朝日で
なんか 中継があって
ロシアとやるノ その中継の時に
お立ち会いになったとかって。
そうですね。
昔 『アフタヌーンショー』かな。
そうなんです。
衛星中継で 初めてのノ。
あなた ロシアへいらしたのね
その時ね。
そうです。
第2作目の合作映画の
『百夜の調べ』という作品で
あちらにいる時ノ。
あなた どこ?
この中にいらっしゃるの?
真ん中辺だと思います。
あっ そうなの? えー!
それで これクレムリンの前ノ。
真ん中に ちょうど
スカーフをして
コートを着てますね。
あっ そうなんですか。
あれですよね
クレムリンの前辺りでノ。
これ そうね あなた。
そうです。
フフフノ 寒いんだ。
あのね 9月の
半ば過ぎなんですけれど
結構 寒かったんですね。
なるほどね。
あっ 可愛い。
これは地下鉄ですね。
先ほどのも 広場で
今では
外国になってしまいましたけど
各共和国の若いお嬢さんたちが
民族衣装を着て
並んでくだすったんです。
本当。 だから ああいうようなね
お洋服ノ。
そうなんです。 で 9月でしたけど
とても寒くて。
しかも 12時ですよね
『アフタヌーンショー』。
昼間の。
そうしますと あちらは
朝の6時なんです。
時差があるから。 大変。
そうすると 6時ですから
4時ぐらいの真っ暗なうちから
スタンバイして 準備をしてノ。
大変。
もう 皆さん 寒さの中ね
元気に出演してくださったんです。
そうなんですか。
それで中継があったの?
モスクワと
『アフタヌーンショー』とで。
はい。 もう 最初
秒針がなくて いきなりノ。
こちらの えっと 川崎敬三さん?
川崎敬三さん。
ノの声が聞こえなくて 私 もう
すぐ始めてしまったんです。
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もう やっぱり
初めての事でしたから
緊張もいたしましたけど。
フフフノ 時間もわかんなくて。
はい。 貴重な経験でした。
そうですか。
地下鉄 先ほどの
アルバーツカヤという駅
あちらも 地下鉄は
なんていうんでしょうノ
美術館のように素敵ですよね。
そうですってね。
モスクワオリンピックに向けて
あのノ なんていうんですか。
モスクワを紹介するという
企画だったと思います。
で 初めての衛星中継という事で。
そうだったんですか。
岡田嘉子さんも。
あら! 懐かしい!
岡田嘉子さんもいらしてて?
はい。
私の日と岡田嘉子さんの日が
ございまして。
岡田嘉子さんね
すごい可愛がってくださったの。
そうでらっしゃるんですか。
最後まで ギリギリまで
ご一緒に
いろんな事やってました。
そうですか。
いい方でしたね。
まあ 皆さん
ご存じないかもしれないけど
昔の映画の大スターで
恋人と一緒にサハリンを越えて
向こうに亡命なすったという事で
大変だったんですけどね
お戻りになったりなんかして
それから
お知り合いになったんですけど。
私も あちらでは
何回も お目にかかりましたし
舞台も見てくださいました。
そうですか。
なんか おっしゃいました? 感想。
そうですね。
お花を持って
客席から いらしてくだすったの。
モスクワのモスソビエト劇場
という所で芝居しました時ノ。
それから 中国でも
あなた 人気だったとかって
伺ったんですけど そうですか?
そうですね まあ 「映画週間」ノ。
「日本映画週間」というのが
北京 上海でございまして
それに私も参加してノ。
お出になった映画が。
『愛と死』という中村登監督の
作品と
『サンダカン八番娼館』という
熊井啓監督の作品が
ちょうど最初にノ。
上映されて。 そうですか。
それで
中国にいらっしゃいまして
吉永小百合さんなんかと一緒に
なんか あのノ
万里の長城を
お登りになったんですって?
はい そうですね。
私 最初の訪中でした。
1979年ですね。
あっ すごい!
うわー! こんなに
人がいっぱいいる!
みんな 関係者なんですけれど。
そうなんですか。
日本からは 15人ノ。
各会社の映画会社の社長様とか
国際部長さんと俳優たち。
それから あちらの
中国の映画人の方たちとノ。
そうなの? 随分にぎやかね。
多分 マスコミの方も
いらしたと思います。
ちょっとVTRがあるそうなんで
この万里の長城
39年前のVTRですけど
ちょっと ご覧いただきます。
あっ すごい。
あれ? これ あなた?
私ですね。
元気ね フフフノ。
あっ 吉永小百合さん。
走ってる人もいる。
「とっても気持ちのいい風ですね」
「吉永さん この間
いらっしゃったのはいつですか?」
「2年前です」
「2年前 いらっしゃった時と
今度来た時と
中国 変わってますか?
やっぱり」
「やはり とても こう
カラフルにノ」
「なんとなく 全体にね こうノ」
「華やいできたっていう感じは
しますね」
「今度 初めて 中国
いらっしゃったんですよね?」
「はい そうです」
「どうですか? 印象は」
「もう何しろ 皆さんが とっても
歓迎してくだすったのでね
それが うれしかったです」
「なんか 随分有名ですね」
「小巻さんのお顔を
知られてるみたいですけどね」
「今日はね たまたま 昨日
私の『愛と死』が
テレビで放映されたそうです」
「だから なんかね みんなが
その役名を覚えてね
メ夏子"って言うの」
そうだったの。 当時の中国って
どんな感じでした?
そうですね。 まあ あのノ
もう 私たち とっても
本当にノ 申しましたように
大歓迎していただいたんですけど
街は 今は もう
車の渋滞が大変でしょ。
その当時は 自転車のノ。
みんな自転車でしたね。
ワーッと道路にね広がるようにね。
それが素晴らしかったですね。
あっ そう。
なんていうのかしら? こう
ワーッと圧倒されるような感じで
素晴らしい風景のように
思えましたし。
あっ そう。
まだ 多分 この万里の長城も
舗装されてないですし
観光地化されてない時でしたよね。
随分 昔ですもんね
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今 あなたノ
全然 話 違うんですけど
どこかで おもらいになった
三線というものを
練習していらっしゃるって。
ああノ。
初めて出会いましたのはね
もう随分前の
今井正監督の
『ひめゆりの塔』という撮影で。
えっ! そんな前?
はい。
ひと月 沖縄におりまして
その時に求めたんです。
それで その時 向こうで ちょっと
教えていただいてたんですけれど。
三味線みたいな格好してるの?
そうです。
ちょっと 小ぶりで。
で ツメで こうノ。
日本のバチではなくて
ツメのもので 奏でて。
そして 歌と一緒にね。
でも それ 34年ぐらい前に
それを手に入れたんだけど
ずっと おやりにならなかったの?
その後。
そう。 途中で何回も始めようと
思いましたけどね
まあ 時間もなくて。
そして 最近も先生にね
何回も お声かけていただいて
やっと 昨年からノ。
去年から? 大変ね。
再開ノ また しました。
どうですか? 今やってらして。
楽しいです。
でも 普段 お家で
勉強できないので
先生の所に伺った時だけ。
どんな音? 三味線みたいな音?
なんていうんでしょう?
やはり 最初に聴きました時にノ。
なんていったらいいんでしょう?
平和のノ なんか
響きのようなものを感じて
厳粛な気持ちになったのを
覚えているんです。
それで とてもノ 始めたい
という気持ちを持ちました。
指じゃなくてノ ツメの なんか
あれで はじくの?
そうです。
そういうものなんですか。
指でもないですし
バチでもないんですね。
そうですか。
私 聴いた事ないノ。 あっ そう。
じゃあ おやりになると
いいかもしれませんね。
そうですね はい。
ぜひ 完遂なさる事を祈って。
そうですね はい。
あの まあノ どこかで
ご披露できるぐらいになるには
大変ですけれども。
これから大変ですけどね。
勉強していきたいと思っています。
そうですね。
あっという間に終わりに
なっちゃったんですけども。
私もね 最近ノ 5歳ぐらいから
ピアノをやってたんですけど
音楽学校にも行ったんですけどノ。
ああ それは素敵ですね。
でも お元気で
何よりでした。
栗原小巻さん 今日
おいでいただきました。
どうも ありがとうございました。
ありがとうございます。